アンビリバボーな昭和のくらし

(その5:投稿編) 

現在、20歳以下の人がぶったまげるような昭和の「あの頃」(30〜40年代)のくらし

について、みなさまから掲示板やメールで頂戴したご意見を紹介させていただきます。(敬称略:順不動)

 

 ★BUNBUN

・ 道の端には必ずドブがあり(足立ローカルかも)木のふたが

  所々あいていて、 よくはまった。

・ 家の窓ガラスには、薄いガラスが使われていて、その鍵はねじ式だった。

・ 穴の空いてない50円玉があった

・ 女性の下着(スリップ)のことを「シミュズ」と言っていた。

・ 銀座線は、駅に着く直前に電気が一瞬消えた。

・ 水をタンクに入れて冷やすクーラーがあった。

・ 家のトイレは和式でくみとりだった。よくスリッパを落として怒られた。

 

★ももぴー

・5円で ハムカツ 10円でコロッケが買えて なおかつ ソースをかけてもらえた。

・突然 道路に飛び出しても 車がくることは めったになかった。←どこだよそれ。

・オート三輪が全盛だった。

・パチンコは 親指ではじいた。

・バナナは おやつに入るか お弁当のデザートに入るかで いつも 口論になった。

・「シミュズ」を着ている 女の人の名前は清水さんと言った。(笑)

 

★atomic服部

馬鹿でっかいフロッピーディスクは、「8インチ」。

つまり8×25.4mm=203.2mmですから20cmはあったわけですね〜

ちなみに、その下のサイズは5インチ、その下が3.5インチでこれが

今おなじみのサイズです。

コンピュータ関連で言えば・・・

・昔は「パソコン」と言わずに「マイコン」と言った。

・「マウス」なんてついて無かった。

・色も8色くらいしか出なかった。音も数年前のケータイの単音着メロくらいにしょぼかった

・英数字とカタカナしか使えなかった。

・フロッピーなんぞついておらず外付けで、しかも本体¥160,000くらいに対し

 フロッピードライブは¥230,000以上もした。

・プログラムは「カセットテープ」に記録した。マイコン用のソフトウエアは、

 「カセットテープ」で売られていた。CD−ROMなんて無かった。

 (というより世の中にCDがまだ無かった)

・メモリー容量も16キロバイトしか無く、「メガ」なんて単位は「マイコンのマニア」

 でも知らなかった。増設してもせいぜい64キロバイトで、しかも「64キロバイトも、

 いったい何に使おうか〜??」と皆ワクワクしながら悩んでいた。

 

★ のぶりん

我が家の地方では、いまだに建前のときは、餅やらお金を撒きます。(笑)

・コタツは練炭掘りごたつだった。

・電話は近くの店に行き、借りてくるものでした。

 電話機の横にぐるぐる回すレバーがあり交換手を呼び出しつないでもらいました。

 通話が終わるともう一度電話がかかってきて「○○円です」といわれお店に払った。

・鉄道はSL全盛時代で発車する時にガタンと引っ張られた。

・掛け時計はぜんまい式で時々とまった。

・コーラは歯が溶けるといわれ、時々しか飲めなかった。

・バイクに乗るときも、ヘルメットは必要なかった。

 

★ハットリクン

今と昔とでは価値観が逆転しているものがあります。

・うちわは竹製でした。ごく高級品にプラスチック製のものが使われました。

 プラスチック製が珍しく大事にしたものでしたが、今思うとなんだか変。

・ストローはその名の通り麦わら製でした。ごく高級品にプラスチック製のものが

 ありました。今、麦わらストローがあれば・・・使わないか。

・おにぎりは竹の皮か何かの葉っぱでで包みました。今ではアルミホイル。

・ベーコンと言えば鯨が一般的だった。今では高級食材?

・ビン飲料の王冠は裏がコルク製。今はプラスチック。裏をはがしてバッジにも出

 来やしない。(裏のコルクをはがして服の裏表から挟んでバッジにしませんでしたか)

・缶飲料には穴あけ用器具がついていた。向こう側に1個空気穴を明けないで飲み口

 だけに明けても飲めなかった。

・ラムネ用の栓抜き。勢いよく平手でたたいた。箸を使って手のひらにささったと言ううわさも。

・昔の50円玉は磁石にくっついた。今では理科の実験もできない。

・板垣退助、岩倉具視、伊藤博文、聖徳太子をみんなよく知っていた。

 新渡戸稲造なんて誰も知らなかった。

・鉛筆は5円、10円が普通だったところへ100円の鉛筆が登場しておったまげた。

 万年筆、シャープペンシルは高級品だった。

・昔は牛乳ビンに土を入れ、ありを飼って観察した。今ではスーパーでかぶと虫。

 ちょっとした庭には、カタツムリ、バッタ、コオロギ、コガネムシ、蝉、糸とん

 ぼ、アゲハチョウ、しじみ蝶、てんとう虫、蜘蛛の類がいた。

・VHSのカセットは発売当初60分もので1万円以上した。もちろん生テープです。

・昔は犬と言えばスピッツ、コリー、ブルドッグ、あたりが多かった。

 スピッツ・・・どこへ行ってしまったんでしょうかね。

・昔、歯磨きは粉だった。

 

★クー

・スパゲティは喫茶店で食べるのが主流だった

・パンツと言えば下着

・靴下の穴は縫ってまた穿く

・牛乳はビンしか無かった

・筆箱にはボンナイフが入っていた

・学校でお休みの人には、給食のパンをワラ半紙に包んで届けた

 

★akahana

>・昔の50円玉は磁石にくっついた。今では理科の実験もできない。

これで思い出したんですけど。

メーカーが思い出せない。 フルヤだったかな? ‘しるこサンド’という御菓子があっ

たんです。 お猿さんの絵が書いてあった。 この会社が‘まるでだめお’のスポンサー

をやっていて確か抽選で「ボロット」の人形が貰えた。 臍が50円玉の穴の大きさに合わ

せた磁石になっていてそこに50円玉をくっつけられるようになっていたんですが。

>・昔、歯磨きは粉だった。

そうそうサンスターの緑色の粉。 あれは大人の味だった。

子供の味は既にチューブ入りペーストになってましたがライオンの果物味でした。

でもオレンジ味はちょっと苦味があったような。

懐かしい話とはちょっとちがうのですが‘氷バナナ’を食べた事のある人居ますか?

見た目は氷レモンと同じなんですが食べると歯磨き粉のバナナの味がする。

 

★ 爆睡問題

幼稚園で園長にみんな呼び出され、庭の片隅に穴を掘らされました。

そして出来上がったものは「外便所」。そうです幼稚園児でも当時は立派な労働力だったのです。

そして頂くミルクは「脱脂粉乳」に砂糖タップリの、

でかいやかんで沸かしたものでした。妙に今でも味を覚えてる。

当時の子供のヘヤ−スタイルは、男は坊主か坊ちゃん刈り。

女は皆「ワカメちゃんカット」でした。

甘い物に餓えていて、人口甘味料なんて当たり前。「愛しのサッカリン様〜」

人口着色料も当たり前「真っ赤、真っ青な煮豆が甘くて旨かった〜」

履物はゴム長の上だけ切ったような「短靴」裸足ではくから足は真っ黒。

雨なんか降ろうもんなら、「グチャグチャ」と音がした。

駄菓子屋には「バラキャラ(ばら売りのキャラメル)」1個1円。

給食のカレーは「サバカレー」クジラ肉のオンパレード。

真っ赤に着色した「クジラのベーコン」に「クジラの竜田揚げ」

遠足に持ってった「すき焼きの缶詰」はクジラ肉。

うちに帰れば「クジラの刺身」でオヤジは晩酌。

車もフロントからクランク棒を差して、ぐるぐる回してかけてたな〜。

「三輪トラック」なんてまだオートバイみたいに跨って乗るタイプのも

あったなー。「ミゼット」がやたらと可愛くて・・・

「メグロ」もよく走ってた。乗ってる人は必ず「ゲートル」を巻いていました。

 

★ほあぴ

・「ゴミ屋さん」という人がいて、鐘の音が聞こえると、母がゴミを持って走っていった。

・講堂(体育館とは言わなかった)に全児童が集められ、

 3台のテレビで東京オリンピックを見せられた。ぜんぜん見えなくて迷惑だった。

・家の前の公園に、紙芝居屋さんが来た。

・お風呂は薪を焚いて沸かしていた。

・都電が走っていた。

・バスには、バスガールという人が乗っていた。

・飛行機に乗って外国旅行へ出かける人を、万歳をして見送った。

・台所にガス湯沸器がなかった。

・庭の物置には、樽に白菜が漬けてあった。

・ゴアテクスなんてなかったし、羽毛なんてものも出回っていなかったので、

 冬はやたらと厚着をさせられた。

・蚊帳をつった。

 

★多名部悠 

 若い人にとって、考えられないであろうことは、「冷蔵庫」ではないでしょうか。

 電気の力で冷やす今の冷蔵庫ではなくて、氷屋さんが運んでくる

 氷を上の段に入れておく、あの冷蔵庫です。

 電気を使わなかった冷蔵庫。これは彼らの想像の外にあるでしょうね。

 

★とうべい 

・明治6年生まれの祖母が炬燵で納豆を作っていた。

・中学高3年間は、高歯履きが決まりだった。

・前島密の一円札や、国会議事堂の緑色五円札

・上級生の女の子がシラミ駆除のため頭にDDTを散布され、タオルを頭に巻いて

 体育館で並んでいた。勿論男子は全員「坊主頭」。

 

★うく

・頭にカーラーを巻いて寝た(女) ←うちの母

・頭にネットをかぶって寝た(男) ←うちの父

・化粧をしたまま寝てた      ←うちの父なわけない

・ゆたんぽを入れて寝た

・昼間は玄関もお勝手も開けっ放しだった

・町の中に焼却炉があって そこにゴミを入れて燃やした

 (燃やす日は決まってたような気がする)

・500円札があった

・自分で作るわたがしの機械がパン屋の前に置いてあった

・女の子でもかりあげだった ←わたし

・レコードを聴く機械(何て言うのかな)は手作りだった

・日曜の朝は「新日本紀行」だ

 

★きよちゃあちゃん★彡

・レトロな黒電話の音(ジャンジャン)

・近所にスーパーがなく、電車で食料調達(実家の近所はコンビニなんて最近出来た)

・駄菓子屋(すーちゃん)が子供の楽しみ(くろぼーが好きだった)

・家庭用ビデオなんてなくてお金持ちの子がモノクロの映写機で写してもらった

 赤ちゃんの時の映像を羨ましく見せてもらってた(不思議やったわあ)

 他にもありそうで、なかなか思い出せない、、、(笑)

 

★くみ  

20歳代びっくり企画、オモシロイですね〜

「お母さんが子供の頃、ハンバーガーは無かったんだよ」

そう子供達に言ったら、エイリアンを見るような目で見られました(^_^;)

銭湯が17円だったとか、10円でたこ焼きが3つ買えたとか

小学生が新聞配達してたとか(これはオススメ!)

わたしたちの子供時代ってシュールでしたよねっ

 

★SATTON 

・小学校の頃、遠足のおやつは学校から支給されていた。

・そしてそのおやつには必ず、クッピーラムネ・都こんぶが入っていた。

・チクロ入りの甘いお菓子を食べた事がある。

・スポーツ自転車といえばセミドロだった。

・自転車用のスピードメーターが欲しかった。

・銭湯には必ずゴム動力で動く船のプラモを持って行った。

・ゲルマラジオを知っている。

・平凡パンチを買うために隣の町まで行った。

・小川ローザ、麻田奈美を知っている。

 

 

★本家Hakko

・10円でバスに乗れた(^.^)

・ハイライトが50円か70円だった。。。←記憶が。。。

 セブンスターなどなかった。。。←40年代初頭の発売だと記憶している

 貧乏人は、「しんせい」か「いこい」だった。。。

・100円ライターなどなく、マッチで風の中でも火をつけるのが粋だった。。。

・私は25年ぐらい前ギターのエフェクターを自作してました。。。

 昔は、自分で作るのが普通だった。。。^_^; でもこれは50年代か。。。

・10円で玉の借りられるパチンコの玉貸し機があった。。。

 それから、その前(多分これが30年代だろうと思う)は

 カウンターで人が玉を貸してくれた。。。 ちなみに、玉数を数えるのも手作業だった。。。

・競馬の馬券も手売りと呼ばれる券だった。。。

 ちなみにマークシートになったのはつい最近だよなあ。。。^_^;

・今の東京ドームの辺りに競輪場があり、東京都の公営ギャンブルが

 廃止された後はプールだった。。。

 

 

★ダムダム人  

昔、実家に父が若い頃作ったキット(?!)のオープンリールが有りました。

その頃は、そう言うキットが有った様です。

当然、真空管で動作して、何と早送りが無い!

むちゃくちゃ重くて持ち運びはたいへんでした。

さすがに、もう捨ててしまいましたが、小さい時の私の声を聞いた事が有ります。

私が高校位の時、ヤマハ(だったと思います)がレコードプレーヤーや

レシーバーアンプ(今の若い方は御存じ無いでしょうね?)のキットと言うのがありました。

最近は自分で工作して、何かを作ると言う事が少なくてちょっと残念です。

(強いて言えば、パソコンを作るのがそれに近い?)

 

 

★いままる

バナナといえは、病気みまいのかごの中に黄色く目立つところに入っていて

ばあちゃんのお見舞いにいったときによく食ったなぁ。

あのときは、メロンなどはプリンスメロンしでも高くて、マスクメロンなん

てもっての他!八百屋の台?のいちばーん高ぁ〜いところに、誰にも買われ

ず、食べられず、飾ってあった?ねぇ。。。。。

>・電話は各家庭になく「呼び出し」というものがあった

そ、そう。σ(^-^)のうちも呼び出しだった。

あの感覚は、まるで会社で遠くの席に掛かってきた電話を歩いていってでる

ようなもので、当たり前のようによその家の電話にでていた気まします。

かけるときは、そばにおいてある貯金箱に10円をいれてかけたりして・・

遠くにかけるときは、100番電話で料金通知もしてもらってましたね。あぁ、懐かしい。

>・ハンバーガーやカップラーメンはなかった

カップラーメンがでたときは、驚いた。

なにしろ、インスタントラーメンごときに100円も払って食うんだから。

そのころのラーメンといえば、普通の即席ラーメンが20円〜30円くらいだったのかなぁ。

「味の大関」なんてラーメンがあったけど、あれは¥10だった気がします。

そんなじだいに、¥100だよぉ〜。

ラーメンやでも¥100円で食べられるところがたくさんあったのに・・・

>・テッシュペーパー、タッパウェア、電卓はなかった

でんたくを初めて使ったときは、6桁だった・・・

それも√や%」などなくて・・・・・でんちも、すぐ終わるし。

なんといっても、皮ケースにはいっていて1万以上しましたね。

 

 

★TRIVISE

. ナイロンの風呂敷は高級なお出かけ用。(信じられますか?)

. 防弾ガラスのカケラを匂いガラス」などと言って路上承認が我々ガキを騙して売っていました。

. 針金細工の自転車、三輪車、風車なども路上で売っていました。10円程度だったかなあ〜

. マッチに糸で仕掛けをした「踊るマッチ箱」も売ってました(5円か10円)

. 紙芝居(黄金バットなど)で水あめをこね回してしばし英雄の世界に浸ってました。これも10円

. 神戸製鋼のウラのスクラップ置き場に行くと本物のピストルがちょこちょこ有りました。

 今思うと充分使えるものでした(あぶねえ!使っちゃ行けない)

  「それはブローニングだよ」と高校生が読んでくれました

. 水玉模様の日本タオル(手ぬぐい)、皆ベルトに挟んでケツにぶら下げていた(特に高校生)

. 学生の帽子は油を塗ってコテコテでした(幼いながら「なんであんな事するんやろ〜」と疑問でした。

. 手回しの計算機が計算尺と肩を並べていた。計算尺は技術屋、計算機は経理関係用。

. ラジオでは「三つの唄」「トンチ教室」「演芸五目メシ」ってのがありました。

   当時はジョージ・ルイカーってオッサンが人気者

. オートバイならライラック、東発、メグロ、陸王、コレダなどが売れ筋。

  ライラックはシャフト・ドライブでした。タイヤメーカーのブリジストンも強制空冷式の

  49ccバイクを製造してました。自転車のくっつけるエンジンとか・・・・

 

 

★タバサ

・都心でも路面電車がうろうろしていて,大事な移動手段だった。

・お餅は年末にお米屋さんに頼んで配達してもらった。

 (今のように年中どこでも売っていませんでしたよね。)

・既製服が一般的じゃなくて洋服は知り合いやお店でオーダーで作ってもらった。

 (デパートには確かイージーオーダーコーナーがあったような気がします。)

・動物園やデパートに行くのでも母親はスーツにパンプス,真珠のネックレス,

 ハンドバッグ,子供はフレザーや革靴を履いて行った。

 両親は参観日にもスーツだったような・・。

 (とにかく電車に乗るときは綺麗な格好が必須でした。)

・駅には有料の手荷物預かりや両替屋があったし,回数券をばらばらにして売っている人がいた。

 (回数券は11枚つづりで10枚分の値段なので1枚分が儲けなのでしょうが,

 あまり割りの良い商売とは思えませんね。)

・冷凍庫が無かったので氷は金属の製氷皿に入れて冷凍室で作っていた。

 (金属の製氷皿の裏に水をつけると早く氷が出来ると言われていました。)

 

 

★黒沢哲哉

・てんぷらや魚を買うと古新聞に包んでくれた。

・醤油やソースは家から空きびんを持って買いに行った。

・郵便局のカウンターは客側と局員側がガラスで仕切られていた

・初期のリンスは洗面器でお湯に溶いて薄めて使うものだった。

・テレビドラマの最中に画面の下半分にテロップ広告がちょこちょこ出てきてうるさかった。

・バスにも車掌がいた。

・初期のパソコンは漢字ROMというものを別途3万円ほど出して買わないと

 半角カタカナしか表示できなかった。

・昔の冷蔵庫は木製で氷を入れて冷やすものだった。

・男子中学生は全員坊主頭だった。

・お好み焼やタコ焼きにマヨネーズをかける習慣はなかった。

・祭りでお神輿をかつぐときの掛け声は「セイヤ、セイヤ」ではなく

 「ワッショイ、ワッショイ」だった。

・ヤクルトは宅配のみでお店では買えなかった。

・初期のビデオデッキはリモコンが別売りだった。

しかしこうして考えてみると、わずか20〜30年の間に世間の常識が大きく変わっちゃってるんですね〜。

 

 

★おなら出ちゃっ太

「電話」の呼び出しですが、「となりのトトロ」で主人公の女の子が電話を

掛けるのに自転車に乗ってダッシュするシーンがありましたね。

あれから半世紀も経たずに、同じ年頃の子が携帯電話なんてものを持つなんて、時代ですねー。

建前では、餅をまいてましたねー。そのうちの数個にはお金(もちろん硬貨)が入ってい

た記憶もあります。けっこう奪い合いで、おとなしい僕はあまり拾えなかった。(^^;

 

 

★いいさん

・小学校のころ東海道線にはまだSLが走っており、駅には必ず顔を洗う水場がありました

・トイレの紙は新聞紙が主流で、使う時はしっかりもみました

・体育の時は裸足で、学校には足洗い場という浅い水槽がありました

・中学のころだと思いますが、西新井大師が焼けました。今でも最大の火事でした

・学校には必ず番長がおり、年に一回は殴られました

・金持ちの尺度はテレビがあるのが条件でした

・学校の机は二人がけで引き出しはなく机の蓋が開きました

 

 

★ F.Aoyagi

・牛乳のパックが三角形をしていた。

 「テトラパック」と言ったと思います。私が小学生の頃が、ちょうど

 出始めの時期で、一ヶ月に一度か二度給食に出てきたのですが、最近は

 トンと見かけなくなりました。

・初期の電話BOXは今のように全身透明ではなかった。

 上半身には窓が付いていましたが、下半身は中が見えないように

 なっていました。よくこの中でイタズラしたものです。

・誰方か都電のことを書いていましたが、「トロリーバス」というのも

 走っていましたよね。都電と同じように電気で走るバスです。

 今の若い人でも、都電までは知っていてもトロリーバスを知っている人と

 言うのは意外に少ないのではないでしょうか?

 

 

★ ゆたか

トロリーバスも懐かしいですね。環6を目黒方面へ走っていた記憶があります。

今は、扇沢から黒部ダムへ抜けるトンネル中しか走っていない筈です。

 

 

★ みつぎ

トロバス 懐かしいですねー。

あの頃は、美人の車掌さんも乗っていましたよね。

赤字路線に、美人の車掌さんを復活させたら

きっと満員になるかもしれませんね。

美人の車掌さんを復活させる会 会長のみつぎでした〜(^^)/

 

 

★ もん

・洗濯機に脱水槽がなく(全自動という意味ではありません)、ローラーでしぼっていた。

・水田、ため池があちこちにあり、オタマジャクシ、ザリガニがとり放題

だった。セイタカアワダチソウを竿にしてザリガニをつった。

まず、よっちゃんいかをエサにして小さいのをつって、それをさばいて

えさにしてマッカチンという大物をつった。

・家に買い物カゴがあった。

・犬が放し飼いだった。

・小学校で肝油を配っていた。

・うちは商売してたので電話があり、裏の家の人に電話がかかってきた

 ときには、大声で叫んで呼びだしていた。

・風呂はまきで焚いていて、煙くてしかたなかった。(今でも風呂に煙突用の穴があいています)

・東京12チャンネル(現テレビ東京)は、朝9時頃にならないとはじまら

 なかった。朝の最初の番組がレースガイドだった。

・ロール式のトイレットペーパはなく、重ねてあるチリ紙だった。

・トイレは汲み取り式で、ブツは農家の肥やしとして利用されていた。

 (うちは女が多かったので相対的に紙の量が多く、農家の人に質が悪いと文句言われてました)

・紙芝居屋がいて、1週間に1回くらい来た。売り物に、ゆびぬき(?)というものがあった。

 割れやすい板状の素材(小麦粉をねって乾燥させたもの?)に

 "ひょうたん"とか"バットとボール"などの絵が溝状に掘られて描いて

 あって、それにそってうまくくりぬいたものを次に来たときに渡すと、

 ソースせんべいをくれた。なめぬき(?)というのもあった。

・駄菓子屋には必ずもんじゃ焼きのテーブルがあった。

・(清掃工場から?)秋葉原駅行きのバスが走っていた。

 

 

★akahana

1)築地の勝鬨橋が本当に跳ね橋だった。 最後に上がったのは昭和39年だという

 風に何処かで読んだ記憶があるのですが…。 私は幼稚園に入る前ですが橋が上が

 る時の信号待ちをした覚えがある。

2)国道15号を荷馬車が通っていた。その後にはときどき湯気の出る匂いのある丸

 い黄色いものが落ちていた。はいっ! 馬糞です。 (失礼)

3)浜松町の貿易センタービルの1階に回転寿司があった。そうでも良いねこんなこと。

4)‘夢の新幹線ひかり号’という絵本があった。

 

 

★長老A

セスナのビラより凄いのは、名古屋のDDTまきです。

なんとヘリコプターが超低空から民家をDDTでじゅうたん爆撃するのです。

事前に町内会に連絡がありその日は洗濯物を干しません。

ハエ、蚊等の対策だったんでしょうね。

我が家は名古屋城近くの、都心の住宅街です。農地に住んでたんではありません。

本当に今から思うと信じられません。その後遺症で、頭髪が少ないのかなあ? (爆) 

 

 

★ダムダム人

ひづめを付ける場所がありました。

私が小さい時、街中に馬のひづめをつける場所があったような気がします。

焼いた蹄鉄をつけるので、ものすごい臭いがしたそうです。

 

 

★ぱっち

うちのだんなは昭和32年生まれですが、「セスナのビラまき」知ってるって。

私はセスナというと拡声器で大きな音で広告を流して飛んでいたのは覚えてるけど

そんな戦時中のアメリカ軍のような事をしていたとは知らなかった・・・。(~_~;)

私の病気の時のご馳走は、パイン缶。

輪切りになって何枚か重なって入っているパインが、たまらなく楽しみだったのよ。

パインのアイスも美味しかったよね〜♪

バナナは小さい時から嫌いであまり食べなかった。

未だにバナナは嫌いです・・・さっちゃんじゃないし。ぶひひ(^0_0^)

 

 

★やまちゃん

卵の思い出はいかがでしょうか?

あの頃、「市場」今で言うショッピングアーケードまたは長屋風マーケットですが、

そこへ買物に行きました。

もみがらにくるまれた卵を一個ずつ買えたのです。それを新聞紙を四つ切にして、

ご飯粒をお湯で溶かした糊で貼りつけ、袋にして、それに入れてくれた。

いまの卵では、柔らかすぎてダメ。あの頃の卵は丈夫で、割ろうとすると、

おでこを割ってしまうほど硬かった。

あの頃でも、一個十円位したと思う。とても高価で、貴重品だった。

遠足か、運動会のときしか、ゆで卵を食べられなかった。

あるとき、スーパーマーケットが出現し、10個10円なんて目玉商品になったとき、

母がまとめて買ってきて、ゆで卵を20個もゆでて、死ぬほど食べたことがある。

ひょっとして、一家心中でも考えてたのかな・・・

 

 

★ももこ

バナナは高かったよね。 

今も台湾バナナは高いでしょ。昔はそれしか無かったのよね。多分。

高いって言ってもしれてるけど・・・・

昔はどうしてあんなに高かったのかしらね。

兄が食べ方を知らなかったから、皮ごとかぶりついて母が

とっても恥ずかしかったって話を何度も聞いたなぁ〜

・暖房器具は、火鉢で・・・毎朝、練炭の火をおこすのが朝一番の仕事・・・

 

 

★いままる

今も覚えているけど、夜間消毒といってなにやら車で町中に消毒液だか、

粉を吹きかけてた時期があったような・・・

今思えば、松本サリン事件のような車だったのかどうかもわからない。

そのころは、消毒の車がくるから雨戸まで閉めてたようか気がします。

(だから正体がみられなかった・・・くやしい)

今思えばすごいことしてたんだね〜。えっ、それって群馬だけ?

 

 

★パゲ  

アンビリバボー編(その1)ですが、確かにこんなことあったなぁ〜、と

一人で思い出し笑いしてしまいました。

私は(多分)はすぴーさんの1歳下で足立区在住だったのですが、運動会の足袋、

確かに買いましたよ!

なぜか小学校の正門前の文具店で売っていて、確か1足100円だったような気が・・・。

くるぶしあたりまでの短いやつで、いわゆる「こはぜ」でとめるのではなく、

ゴムが入っていたように思います。

でも裸足で走ってた子供も大勢いました(私も・・・)。だから運動会の

前日は、生徒全員で校庭の小石を拾ったものです。

 

 

★くみ

今日、娘を連れて大型スーパーへ行ったのですが

子供の日ということで「動物ふれあいナントカ」っていうイベントをしてた。

で、ひよこをたくさん檻に入れてあったのね。

見ながら私、娘に、「ママがアンタくらいの頃って、学校前に

ひよこ売りのオジさんが来てたんだよ」「ピンクやブルーのひよこも売ってんだ」

と色々話すと、ぶったまげられました。

学校前って、アヤシイおじさんがいろんなもの売りに来てたよねー?

ひよこ・亀・本・・今は居ないのかな?

 

 

★セレナーデ

  私も香りやかわいいイラストのティッシュ集めていたよ〜それで花を作って遊びもしました。

  セスナ機広告は、ビラはまかないけど我が町の人形屋さんはやっていますよ!

  後ね、ロバのパン屋さんで幼稚園までは本当のロバがやってきてました。

  くみさんの書いてあるカラフルなひよこちゃんは、縁日で売られていました。

  後ね三重で住んでるときにペットの当てくじがあって驚いたし〜かわいそうだと

  何かもう少し年齢も落ち着いたら、懐かしもの探し全国の旅なんてどうかな〜?

 

 

★晴美

私の育った街は田舎で人口密度も低かったので(笑)

チラシ撒きなんてありえなかったけど、空から何か降ってきたら楽しいだろうなぁ〜。

ちなみに私は彼氏の家に遊びに行って、おトイレ借りたとき

地底湖のようなトイレに、スリッパ落としたことが2回あります(爆)

恥ずかしかったなぁ・・・・・。

トイレにスリッパ落としたことある人って、結構いるんじゃないかしら?

私だけ???(笑)

 

★かずちん

トイレのスリッパ 私も実は・・・落としたことあります>晴美ちゃん

ピアノの先生の家で落としてしまいました。

 

★やまちゃん

1.便所紙:やまちゃん、もうすこしびんぼーだったので、「ちり紙」にも

 グレードがありまして、つるつるのもの、白くてごわごわ、そして最後に

 黒くてごわごわ、でした。黒い塊のような、1メートルくらいのちり紙を買ってきたのです。

 やまちゃんの小学校は、割と恵まれた人が多くて、「ティッシュを持たせて

 ください」などと指示があり、やまちゃんは、この黒いごわごわを胸に挿し

 て行き、母が飛んできたことがありました。

2.洋式トイレですが、昭和47年、中学3年生のとき、修学旅行の準備として、

 みんなが京都の下調べをして、学年発表会がありました。

 やまちゃんも発表したのですが、その内容がなんと!「洋式便所の使い方」

 でした。今考えると、先生のいじめだったのではないだろうか?と思うくら

 い、あの頃はそんなものでした。古き良き時代?だなー

 

 

★天使のサンダル

いくつかは覚えがあります。私(26歳)も、運動会の前には

石拾いをさせられました。でも、その頃はほとんど全ての児童が

運動靴を使用していたのですが(笑)それとも、学年に一人くらい

はだしで走るやつがいるので、そいつの為だったのでしょうか。

あと、小学生の時母親に「1ドルって何円?」と聞いたら

「360円」という答えが返って来ました。私が生まれる前から

変動制になっていたのにです(笑)私は今でもこの事で親を

時々からかっています(笑)

 

 

★キララ

運動会の足袋の底は、ゴム付きじゃなかったよ。白のTシャツにトレパン(白の綿の

ズボンとでも言うのでしょうか(^.^) 女子は、黒の短パン(綿)もはきましたわ。

バナナも高級なものだったのですね、あの頃は。

馬橇は、近くに馬を飼っている家があるので今でも見かけます(^^ゞ

 

 

★ MOG

馬が歩いていたという話を見て、思い出したのが「ロバのパン屋」。

私は神戸出身ですが、本当にロバが屋台を引っ張っていました。

40年代といえば舗装工事が頻繁に行われていて、アスファルトに

足型をつけてまわったりもしたなぁ。

100円玉と50円玉が新しくなったのが昭和42年。

50円玉なんか小さくなっしまって値打ちがなくなりましたね。

当時の漫画で、この新しいコインを偽金だと言って受け付けない

タバコ屋のばあさんの話を覚えています。

 

 

★あんくる

〉当時、運動靴がなかったわけではないが、なぜ足袋を履かされたのかわからない。

昭和48年の小学生の一部も、足袋で徒競走してました。

当時は「運動靴(スニーカーとは呼べない)」が重かったのが大きな理由でした。

少なくとも私のところでは。足袋の方が断然軽いですから。私はしませんでした。貧乏

なことも理由ですが、足袋を履いて、それでも遅いと、言い訳ができないから。

 

〉はすぴー世代のおっさんの中にもは「肥溜め」に落ちたという経験者は意外と多い。

当然私も。腿までつかった程度ですけど。しかし屎尿(厳密に言うと、「おしっこ」

が最高の肥料バランス。)を肥料にするというのは、非常に理に適った、リサイクル

の原点ともいうべき手法です。人の屎尿を肥料にするという発明以来、日本の食料生

産は安定し、坂東の発展から鎌倉幕府という武家政治に繋がるようです。

 

〉ハンバーガーやカップラーメンはなかった

ちなみに「ちびまる子ちゃん」に描かれてるように、40年代末の「袋のインスタント

ラーメン」は、♪37円なおケッコウ!(ハウス食品のタマゴメン)でした。

 

〉だからおケケの見えてしまうヘアヌードが解禁された日にゃ、死ぬほどぶったまげ

てしまったのだ。でもおっぴろげのヌードほどつまらないものはないなぁ〜

 

解禁というのか、初めてみた有名人の市販の「ヘアヌード写真集」は、多分、樋口可

南子さんだと思います。紀信の。ちなみに糸井(徳川埋蔵金)重里夫人。そのすぐ後

くらいに、例の宮沢りえちゃんの「サンタ・フェ」でしょう。

 

〉これを「呼び出し」と言って当り前のように近所付き合いがされているのだ。

すみません。昭和50年まで、私の近所はそうでした。

その「近所」まで、70mは離れてるんで、呼び出しが大変でした。

その頃はもう「10円均一」じゃなかったんで、かける時は電電公社に最初にかけて、でした。

 

〉はすぴーの実家はつい数年前までは「汲み取り便所」だったのである。

私の実家は「今も」です。

〉足立区ではつい2〜3年前まで「バキュームカー」を頻繁に見かけた。

 これは、まだ日本の家庭の4割はお世話になってるはずです。参考に。

http://www.mlit.go.jp/crd/city/sewerage/information/h11fukyu000904.html

 

ちなみに、逆に古くから下水道が整備されてる地区は、大雨の後は川に行かない方

がいいところが多いです。古い下水道は「雨も流す」ので、雨が多いと、「雨で薄

まったんだからいいじゃん」ということで、処理場までの途中で(未処理で)川に放

流するからです。管に入りきらなくなるので。

 

もひとつちなみに、水洗便所でもバキュームカーが必要な地区もあります。下水道

ではなく「浄化槽(個人所有の下水処理場だと思えばいいです)」で水洗便所を実現

してる場合、やはり「汚泥」というものが溜まりますので、定期的にそれを抜く必要

があります。ただ、分解されてるので、それほどは臭くありません。

 

 

〉水洗便所は昭和40年代の半ばあたりから一般的になったように思う。

これについては、ここかな。40年代末に約20%になってます。

http://www.alpha-web.ne.jp/jswa/japan/hukyu.html

当然、都会は、早いです。

 

〉現在でも病院や図書館では西洋式以外に和式も備え付けている場所がある。

 実のところ、公共の場のトイレが和式が多いのは、「掃除がしやすい」ということ

もあります。洋式は、特に側面の掃除が面倒なんです。

 

〉便器を逆にまたいだり、便器の上にしゃがんでやったという人があまりにも多かったのだ。(マジ)

 少し前ネプチューン原田主演でテレビドラマになった「編集王」の主人公、便器の

上にしゃがんでます。しかも全裸で。

 

〉昭和46年(1971)のドル・ショックによって固定相場から変動相場に移行された。

私は小川真由美主演の土曜21時「アイフル大作戦」(キイハンターとGメン'75の間の

シリーズ)で知りました。ドル立ての依頼料(探偵事務所が舞台)が見る見る安く

なっていくのに卒倒する小川真由美さん。

 

〉そういえば「アップダウンクイズ」の賞金は「豪華ハワイ旅行」で海外に行くこと

は庶民にとって夢の夢のようなステイタスであり「憧れのハワイ航路」なのであった。

ですから「夢のハワイ旅行ご招待」と言っていました。いつからか「夢の」と言わな

くなり、そのうち番組もなくなりました。

 

たくさんの投稿、どうもありがとうございました。<(_ _)>


 →アンビリバボーな昭和のくらし(その1) (その2)  (その3)   (その4)

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(原稿:2002.3.3)

 

「あの頃」のセピア色の想い出