アンビリバボーな昭和のくらし(その1)

 

会社の若い連中(20歳代前半)とたまに呑みに行ったりすることがあるのだが、

先日も「俺が小学生のガキの頃ってハンバーガーやカップラーメンはなかったもんな」

と何げなくしゃべったこの発言に対して、「それって戦前のことじゃないっすか」

なんて超おったまがられることがある。

決して、はすぴーは昭和ひと桁生まれではないのだが、たしかにこの20〜30年

の間に世の中はあまりにも大きく変化してきたのは事実のようだ。

そこで、今回のエッセイは現在の20歳以下の人がぶったまげるような昭和の

「あの頃」(30〜40年代)のくらしをご紹介してみようかと思う。

 

バナナは高級品だった

今やバナナはひと房100円程度で買えるものだが、昭和の「あの頃」はバナナは

現在のマスクメロンや高級の桃、ビワに匹敵するくらいの存在であった。

子どもにとってはバナナは滅多に食べられる機会がなく、はすぴーの場合、風邪を

ひいた時やお客様をもてなす時にしか食べられるものではなかったのだ。

遠足のおやつとしてバナナは定番であり、当時、おやつ代は300円以内という

決まりがあったが、バナナがおやつの中に入るのか入らないのか学級会で討論さえ

した時代なのだ。これはマジな話であり、’食後のデザート’なんていうものは

概念としてないのである。

「サッちゃん」の歌にもあるように、サッちゃんは小さいからバナナを半分しか食べ

られなかったのだ。かわいそうね、サッちゃん♪

 

 

運動会は「足袋」で走った

 

これは掲示板によると同年代でも地域差があるようだが、はすぴーの場合、小学2年

まで運動会には「足袋」を履いて徒競走をしたのだ。

そして1等賞になると「えー、このたびはおめでとうございます」なんてギャグを

言われることはなかった。。。。(笑)

この足袋は学校の指定するもので、なぜか近所の文房具で売っていて、白い普通の

足袋の裏にゴムが貼ってあり、踏ん張りがきくようになっている。

当時、運動靴がなかったわけではないが、なぜ足袋を履かされたのかわからない。

はすぴーは和服を着ることはないので、その後、足袋を履くことはなかったが、自分の

結婚式で袴を着た時に久しぶりに足袋というものを履いた。

思わず駆け出したい衝動にかられたぞ。

 

 

馬が道を闊歩していた

これははすぴーの住む東京のチベット足立区特有の光景なのかも知れないが、馬が道を

歩いていたのだ。といっても、野生の馬が1匹でパカパカと歩いているわけじゃなく、

たぶん農業用?の馬を飼い主がひいているということで、道には「馬糞」がコロコロと

落ちている。誰も掃除なんてしないから、はすぴーたちは気をつけて道を歩かないと靴が

’くそまみれ’になってしまうのだ。

馬が歩いているくらいだから、耕運機やトラクターはもとより田植え機なんかも通学路

を走っていた。

ついでに言うと、犬のフンは今よりもあの頃の方が多かったような気がする。

(飼い主がフンを持ち帰るなんていう慣習はなかった)

友人と学校に行く途中、誤って犬のウンコを踏んだやつは、その日は一日中

「♪ウンコ踏んじやー踏んじやーのパラソルチョコレート」とからかわれたもんだ。

   (解説:↑これは不二家、不二家のパラソルチョコレートのCMソングをもじっている)

 

 

肥溜めに落ちた

ビローなネタついでにもうひとつ。当時、はすぴーの住んでいた足立区は田んぼや畑が

多く、そして「肥溜め(こえだめ)」もいたるところにあった。

「肥溜め」と言っても、知らない人のために補足しますと、畑の肥料とするために

「ボットン便所(水洗でない)」で蓄積されたものをここに移して溜めておくんですねぇ〜。

つまりウンコの池と申しましょうか、ばっちいプールと申しましょうか、、、(汗)

大きさは直径1〜2メートルくらいの円形でちょうど幼児用のビニールのプールを

想像してもらいたい。

そんなものが畑の隅っこの方に目立たなくあるのだ。周囲には雑草が生い茂っていたり

するもんだから、落ちてしまうのだ。

といっても全身がおぼれるわけではなく、片足だけ「ズブッ」と落ちる。

そして半ベソをかきながら家に帰り、おカアチャンから呆れられるのだ。

買ったばかりのサッカーシューズを糞まみれにした時のことは今だに忘れなれない。(泣)

はすぴー世代のおっさんの中にもは「肥溜め」に落ちたという経験者は意外と多い。

 

 

ハンバーガーやカップラーメンはなかった

当時、TVマンガ「ポパイ」の中でウィンピーが「来週の火曜日には絶対に返すから

ハンバーガーをおごってくれよ」というセリフが毎回あった。

はすぴーはこれを見た時に「うーむ、アメリカにはハンバーガーというかなり美味そうな

食べ物があるらしい」と思った。

ハンバーグは知っていたが、ハンバーガーというものは食べたことがなかった。

そして日本マクドナルドがオープンした昭和46年(1971)に初めてハンバーガーというもの

を口にしたのだ。本当に美味いと思った。そしてポテトフライ、マックシェークも初めて

口にしたのたが、世の中にこんなに美味いものがあるのかぁ〜と思った。

アメリカ人はこんなに美味いものを毎日、食べているから、ビートルズはあんなに素晴らしい

音楽を創れるんだな〜と思った(ビートルズはイギリス人だということを後で知る・・・汗)

 

カップラーメンが世の中に登場したのも、同じ昭和46年だ。テレビ番組「ヤングOh!Oh!」

の中で「カップヌードル(日清食品)」を盛んに宣伝していた。銀座の歩行者天国でこれを

食べ歩きするのがオシャレだと言われていた頃だ。

はすぴーは友人W君の家でご馳走になったのが初めての経験だが、あまり美味しいとは

思わなかった。普通に作る「チャルメラ」や駄菓子屋で売っている「ベビースタ」の方が

マシだと思ったが、その後いつのまにかカップラーメン愛好家になっている。why?

 

 

セスナ機から広告のビラをまいていた

はすぴーが小学1〜2年生の頃だったと思うから、昭和40年の前後だと思われるが、

近所の友達と缶ケリをしていた時に、軽飛行機が低空飛行で飛んできて何やら紙きれの

ようなものを撒いているのだ。推測するに数にして何百もの紙をばら撒くのだから、まるで大雪でも

降ってきたかのような感じだ。それらがフワフワとはすぴーたちの頭上に落ちてきた。その内容は

子どもには何の意味かわからなかったが、何かの宣伝広告でいわゆる「ビラ」というやつ

だった。誰かがそれを拾い集めだし、もうひとりも負けじと拾い出した。そして缶ケリを

やめて全員でビラを拾い集めることに熱中した。きっと現在の子どもたちがトレードカード

を集めるような感覚だったのではなかろうか。

家に持ち帰ると、母親から「そんな汚いもの早く捨ててしまいなさいっ」と叱られた。

他の友達も同じように叱られたらしい。

テレビがまだ普及していない頃だったので、このような宣伝の仕方もあったのだろうが、

費用対効果はどうだったのだろうか?

(そういえばチンドン屋さんやアドバルーンをよく見かけたのもこの頃だ)

またゴミを撒き散らしているような気もしないでもないが、法律上問題はなかったのだろうか?



イラスト:団塊の世代 木村章一著

 

 

ヘアヌードなんてもってのほかだ

当時は今ほど「性」は氾濫していなかった。エロ本はあったけど、今のものと比較すれば

エロなんて呼べるものではなく、それはそれはかわいいもんだ♪

「平凡パンチ」という雑誌は表紙のイラストに女性のヒップを使っているだけのものだった

が、「あの頃」のはすぴーたちは学校の帰りにそれを横目で見るだけでも興奮したもんだ。

ビニ本なんていうものはなく、当然エッチな本の自販機もない時代にエロ本を手に入れる

のは至難の技だった。本屋に買いに行っても子どもには売ってくれないのだ。

(小学6年の時、わざわざ隣り町の本屋まで買いにいったのに、断られた記憶あり)

しかし、読み終わったエロ本はよく空き地に山積みになって捨てられていることがあった。

雨にさらされてボロボロになった泥まじりのエロ本をこっそり自分の部屋に持ち帰ったことも

懐かしい思い出だ。そして女性の神秘について研究をする。。。(^^ゞ

テレビ番組だって今ほどドギツイシーンはなく、せいぜいイレブンPMの木曜日を楽しみにして

いる程度だった。(曜日を間違えて麻雀や釣りをやっていると結構、頭にくるぜぃ)

だからおケケの見えてしまうヘアヌードが解禁された日にゃ、死ぬほどぶったまげてしまった

のだ。でもおっぴろげのヌードほどつまらないものはないなぁ〜

ちなみに私、アグネス・ラムが好きでした \(~o~)/

(※えっち系の話は「性に目覚める頃」を参照してね。

 

 

電話のない家もあった

今や携帯電話、PHSは爆発的に普及して、ひとりに1台となる日もそう遠くないようだ。

昭和の「あの頃」には電話のない家庭も結構あった。実際、小学4年の時の「学級緊急連絡網」

には電話番号の書いていない人には最寄りのクラスメートから点線で繋がれていて、「徒歩で」

と書いたあったことを思い出す。

当時、電話のない家はどうしたかと言えば電話のある隣り近所の家に取り次いでもらうのだ。

これを「呼び出し」と言って当り前のように近所付き合いがされているのだ。

たとえば、

「こんばんわぁ〜、となりの森ですが、小泉さんに電話が入っていますよ」

「あーら、森さんの奥様、いつも呼び出ししてもらってすみませんねぇ」

こうして小泉さんはサンダルをつっかけてとなりの森さんちの電話を使い始めるのだ。

また小泉さんから電話を掛けたい時に、近くに公衆電話があればいいのだが、それがない場合には

「あのぅ、夜分いつもすみませんねぇ、ちょっと電話、お借りしてもよいかしら、おほほ」

「あーら、小泉さん、どうぞどうぞ遠慮なんかしなくていいんだからさぁ、おほほ」

と、こんな具合に電話を共有化していた時代なのだ。

もちろん、いつもおとなりさんが森さんのような親切でないケースもあり、電話機のそばに

「1回10円」と書かれた貯金箱が置いてある場合もあったようだ。(笑)

電話といえば、当時の課金方法は時間制ではなく、どんなに使おうとも「1回10円」

あった。もちろん電話機はプッシュ式ではなく、ジーコジーコとダイヤルを回すタイプだ。

公衆電話については、5円玉が使えるものもあった。

ただ電話」「絶滅した赤電話」も参考にしてください。


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「のすたるじぃ〜懐古掲示板」に’超おどろき〜だぜぃのアンビリバボーネタ’を募集しています

(原稿:2001.4.30)

 

「あの頃」のセピア色の想い出